ししゃもろぐ

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耳をすませば、ありえない物語をありえそうに描き、多くの無駄な劣等感を生む(でも好き)

今日の金曜ロードショー耳をすませばだった。

耳をすませばといえば、もう公開してから時間がたっていることもあり、完全に大人になってしまった人たちに青春の甘酸っぱさを思い出させる映画として評価が定まっている。

耳をすませば=経験できなかった、理想的な青春 という図式がバッチリ出来上がってしまっている。

 

多分今までに一度見たことがある人は全員耳をすませばといえば、なんだか自分の青春時代と重ね合わせて劣等感を味わいつつ、それでもなおキラキラとしたストーリーが魅力的だという印象を持っているだろう。

当然私もこの映画を見るたびに、恋愛に関するイベントの希薄な学生生活を思い出してはつらい思いをしている。

 

けれど、本当にその評価は正しいだろうか。

本当に耳をすませばで描かれる物語は、僕たちが目指すべき青春の姿だったのか。

描かれる物語と現実の記憶を比べて、ひょっとしたら私達にも(めぐり合わせさえよければ)こんなイベントが起きてもよかったんじゃないか、と思ってしまうけれど、そう思うのはいったいどうなんだと。

 

 

何が言いたいかというと、この耳をすませばという映画は、現実には到底あり得ない恋愛物語を、あたかもあり得てもよさそうに描いていて、そしてあまりにもその書き方がうますぎるせいで、私たちは無駄に自分の人生と比較してしまっているんじゃないか、ということだ。

 

映画の中では聖治くんは中学卒業とともにバイオリン技師を目指して海外に飛び立つが、そんな中学生存在するか?

気になった女の子が借りそうな本を全部先回りして借りておく男なんているか?

ラストシーンでは夜明け前にたまたま雫の家の前に聖治くんがいたが、いくら恋人とはいえ深夜4時に相手の家の前をうろつくことなんてあるか?

matome.naver.jp

NAVERで申し訳ないが、うまくまとめてあったので引用した。

 

 

私達はやっぱりそもそもリアリティ重視で書いてあると思っていた物語と実際の人生を比べて苦しんでいたけれど、そもそも耳をすませばは完全なるフィクションで、私たちの学生時代と比べるような土俵にはいなかったんじゃないか?

 

と、やはり私はこう思うわけです。

 

押井守もこういっている(らしい。ソースの信頼性に欠けるが)

確認が取れないので誰が言ったかは分からないけれど、うまく文章化してあるので引用する。

あのね、ちょっとだけ言わせてもらってもいいですか。

この映画は、何一つ救いがない映画ですよ。

実際には、現実には、絶対にありえないことを、
思いっきり細部までこだわった現実的な日常の世界として描くなんて、
反則以外の何物でもない。

ファンタジーの世界、少女漫画の世界なら、そこにはフィクションとしての前提があり、
それに則った作品としているから、見る側にも、救いがある。
それは、受け手が、初めから「嘘の世界」を前提として見ているからだ。

 

 そしてさらにこう続く。

 

 

見ている者は、最初の導入から始まり、この映画は日常の世界として知らず知らずにこの世界に入ってしまう。
そこから、恐るべき侵食が始まっている。
最後まで完璧な日常の世界として描かれているこの映画は、最後まで見たものを恐ろしくも洗脳させる。

そして、見た者は大いなる錯覚をする。

「これが、本来の現実の世界ではないのか」、と・・・

 

そしてこの記事と同じ結論に至る。

 

「いいなあこんな学生生活」
「これが本来あるべき学生生活だったんだ」
「すると俺の学生生活ってなんだったんだろう」

そして、見たものの中に、
本来では「ありえなかった現実の世界」が正当化され、
従来の「あたりまえだった現実の世界」が否定される。

本来持っていなかったものをまるで持っていたように錯覚させ、それを否定される。

こんな残酷な作品は無い。

「現実を錯覚させる」ことがそもそもの悪であり、
「現実を否定させる」ことはもっと悪である。

これを作った人は、世の中の人たちにとって、悪である。

映画史上、こんな罪作りな作品は、他に無い。

 

ストーリーが君の名は。くらいぶっ飛んでこれはフィクションですよ。と言ってくれていたらこんなに耳をすませばの呪縛にかかる人も少なかっただろう。

やっぱりジブリはとんでもない作品を多く生み出しているね。